上白糖、大盛りで

特に益はないです

言語化してみることに意義があるのです

皆さん、こんにちは。あるいは、きのうは、おとといは。

つくづくライブ感がないですね。

改めまして、こんにちは。

線形の単位ありました。普通にうれしい。すばらしきかなB/(A+,A,B,C,D)。ありがとう線形。おかげで自分は四則演算が苦手らしいことがわかった。小学生かよ。何はともあれ、普通でよかった。普通が一番。

普通について

「普通」という言葉、結構普通に使うんですけど「普通」って何なんですかね。とりあえず「ありふれたこと」とすると各人の言動・思考は各人にとって大概ありきたりですし、日常というものは然したる変化がないからこそ日常なので、大体の事象が「普通」で片付きます。あなたも普通。私も普通。一億総普通社会です。え、違う?  ええ、正しくは「あなたも(自称)普通。私も(自称)普通。」ですけど。いいじゃないですか。

常識について

いくら普通像に個人差があるとしてもそれぞれの要素を照合すれば、最大公約数的な普通像が得られるだろう。それこそが真っ当な「普通」じゃないのか。こう言語化した人がどれだけいるかはともかくとして、そういう発想に基づいて形成される知識体系がいわゆる「常識」というものなのではないかと思うのです。円滑なコミュニケーションを行うには普通像が近いことか普通像を把握することが必要になりますが、ではコンセンサスをとりましょうかと日常会話でおっぱじめるほど人間暇ではないでしょう。そこで役立つのが「常識」です。初対面の人と会話するとき、天気の話でお茶を濁すことができるのも常識のおかげですし、当たりを付けて趣味を探ることができるのも常識のおかげです。「常識」は「普通」と同じく個人差のあるものですが、その成り立ち上、担い手の少ない常識は担い手の多い常識に淘汰される性質があります。そう、常識とは多数決の産物なのです。行く先が集合知か衆愚かは神のみぞ知る。良くも悪くもないところに落ち着くのが常とは思いますが。「良くも悪くもない」というのは結局「普通」ということですか。そうですか。

 

微妙に小論文っぽくなってきましたが、眠いのでこの辺でやめます。結論…? リテラシー辺りだと思いますよ。