上白糖、大盛りで

特に益はないです

2022-10-23

 ここ数年のマイテーマとして「リアリティを得る」という題がある。ここでリアリティとは「地に足の着いた感じ」「実経験を主な背景とする、言動のもっともらしさ」「自身の物質性・肉体性を踏まえた様子」などを曖昧にまとめた概念ということにする。これは体幹のようなものであり、増すと何か嬉しいことでもあるのかと問われると「健康な状態に近づくことができる」くらいしか分かりやすい回答がない。そういうタイプの筋トレをやっていると捉えてもらればありがたい。

 リアリティを得る方法はいくつもあり、例としては以下のようなものが挙げられる。「これはどうか?」という意見が読者にあれば、それも多分そうである。

  • 食事を用意し片付ける
  • 服を洗い乾かす
  • 重量物を上げ下げする
  • ゴミを袋にまとめ集積所に出す
  • 込み入った手作業に習熟する
  • 職をやる

 今春から同居人と暮らしつつ働いているので、上述の話が妥当であれば私のリアリティはここ数か月で爆上がっているはずである。惜しむらくは、その実態を判断する方法を私は持っていない。「私にリアリティを感じますか?」などといった不明瞭な質問を投げてくる人間は、明らかに地から足が浮いている。

2021-09-01

 今日は盛大に寝違え碌に手が進まなかった。私が寝違えるのは珍しいことなのだけれど、碌に手が進まない日というものはそれほど珍しくなく、そういう日の夜中には決まってこのツイートを思い出す。

 充実というものを「良い方向に進むこと」と言い換えてみると(良い場所に留まることを人はマンネリと言う)充実感というものは気の持ちようにひどく依存することが推論できる。良い方向とは何だろうか。どの程度の作用や変化があれば進んだことになるのだろうか。進むことがあれば戻ることもあるのだろうか。場合によっては回し車で事足りるということもあるかもしれない。

 規則正しい生活は健康に資するのだから、夜更かしに励むよりさっさと寝てしまうほうが余程充実につながるような気はする。そんな気はするのだけど、そこまで割り切れない夜もあるのでこうして益体のない文を書いている。

2021-07-12

 小学生のころ音楽鑑賞の授業があった。ミニコンポでクラシックを聴き自由に感想を書くという内容で、そこにどんな教育効果がどの程度期待し得るのかについては今でもよく分からないのだけど、ともかくそういう授業が何度かあった。当時は文章の構造を意識する習慣も特になく「最初のピアノの音がきれいだった」とか「次の部分は力強かった」など聞こえてきた旋律の印象を聞こえてきた順に書きつけていた記憶が何となくある。読書感想文で延々あらすじを紹介してしまうのと大体同じ機序だ。担任は「感想というより分析っぽい」と苦笑していたけれど、当人のほうは感じたことをそのまま書いたのだからこれは感想に他ならないだろうと首を傾げるばかりだった。

 最近は何を見聞きするにしても何を感想するのが適切かということをまず考えてしまい、これはこれで非常に悪い癖である。最初に問うべきは自分が何を感じ何を捉えたかということであって、感想なり主張なりが導かれるのはその問いにひとまず答えが出た後でなければならない。適切な感想を用意しその感想に整合するよう体験を解釈してしまうということは、その体験が自分に及ぼした影響を考慮しないということであり、それは体験から何一つ得なかったということだ。

 土曜日 Amazon Prime Video でスーパーカブを一気見したので感じたことを書いておく。くすんだ景色が色づいていく描写が(たぶん古典的でこそあれ)小気味よかったのとカブへの信頼が極厚で少し引いたのとが特に印象に残った。装備が揃うにつれ乗り心地が増す描写を見てバイクにハマる気持ちが少し察せた。淡々とした演出で世界への希望が描かれていて前向きな気分になれた。演出が細かいので一気見するのは少しもったいなかった。そのうちもう一周すると思う。

2021-03-30

 就職活動の影響で思考が抽象に寄った感覚がある。業界研究やES作成には少なからず記号操作が必要となるし、志望動機を洗練させるには具体から抽象を導くのが手っ取り早い。就活開始から終了までの全段階でそれなりにストレスがかかったのも原因だろう。「何事も抽象的であればあるほど良い」「抽象は毒だ、とにかく具体をやれ」等の極端な流派はいざ知らず「抽象と具体とはバランスを保つことが重要である」ということは多くの人が了解している事柄であり、その知見に照らすと現在の私の状態はあまり望ましいものでないと自覚される。そういう経緯から、今日は意識して具体的な話をしようと思う。書くことと考えることとは密接に関わっているのだから具体を書けば思考も具体に寄るだろうという浅い目論見だ。

 キーボードを頻繁に叩く生活を送るうえで最も重要な――『最も』という言葉は過言だとしてもそれなりに大切な――ことは、手指のケアである。樹脂製(PBTでもABSでも何でも構わない)のキーキャップは指先から確実に皮脂を奪う。加えて打鍵という行為自体が表皮に傷をもたらす。一度の打鍵が指先に与えるダメージは非常に軽微なものだが、皮脂による緩衝なしで繰り返し繰り返し打鍵を行えば指先が荒れるのは必定だ。一度ひびが出た指はなかなか回復せず、回復しないうちに荒れた指を起点として掌までひびが広がる。ややもするとひびはあかぎれに深化し常に痛い。放っておけば多少治るが、完治には至らずまたあかぎれが出て常に痛い。このように手指のケアは非常に重要だ。私は手指のケアを怠っていたため、ここ半年以上上述の状態で過ごしていた。しかし、先日ふと思い立ってハンドクリームを買ったことから事情が変わる。買ったハンドクリームはラベンダーの香りが強いため使う度に部屋がラベンダーっぽくなる。まあラベンダーそのものはともかく(ラベンダーという植物は節操なく伸びるのだ)、ラベンダーの香りには特に好悪を感じないから問題という問題でもない。ハンドクリームを使い続けた効果か、最近はあかぎれやひびがなくなった! 使用をやめた途端手荒れが再発する予感はあるので、しばらく塗り続けるつもりだ。

 もう少し話を続けたいのでハンドクリームの成分表示を眺めてみる。大学受験以来化学を学んでこなかったため、大体が正体不明の文字列だ。商品説明を読むと『シアバター』という単語が目に留まった。よく分からないが少なくとも『ステアロイルラクチレートNa』よりは使い時がある言葉だろうと踏んでググると、肌・髪に良い効能が期待されることや西アフリカの重要産品であることが分かる。西アフリカについては詳しくないどころかほとんど知識を持たないのであまり話が広がらない。西アフリカについて国連広報やJICAのページを眺めていると就活マインドが活性化してきたので今日はここで止めておく。

2020-12-27

 寿司打 (http://typingx0.net/sushida/) の10000円コースで遊んだら 5.2 文字/秒 が出た。去年遊んだときは確か 4.3 文字/秒 辺りで、当時それ以上タイピングが速くなる予感は全くしなかった覚えがある。つくづく自己評価は当てにならない。

 タイピングが速くなったからと言って文章なり何なりを記述する速度が上がったかというと特にそんなことはない。と思いはするけれど、実際のところよく分からない。指が速く動くことと思考の速度が上がることとは、全く無関係とは言えないけれど、当然まあまあ別問題だ。一方で、打鍵に習熟するということはそれまで打鍵に費やしていた時間的・認知的リソースをいくらか節約できるようになるということを意味するのだから、思考に当てられる資源が増える分結果として出力の速度は上がっているのではないかと思う節もある。

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 この前「文章の添削を真面目にやろうとするといちいち言語化する必要があって面倒。全部感覚で書きたい」という愚痴を恋人氏にぶっちゃけたら「私はむしろ言語化する作業が好き」と返答があり衝撃を受けた。適性の違いだ。あるいは、私が遅筆なのは文章を書くこと自体面倒がってるからなのかもしれない(恋人氏は速筆だ)。

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    "Santa Claus is Coming to Town" の歌詞は大分に説教くさいものの、このフレーズ自体はとても好ましいものに思える。サンタクロースが実体を持たない存在であることを私は知っているし、街にサンタクロースが来たとして近所に彼が来るとも限らないだろうと考える程度に私は捻くれている。けれど、サンタクロースが実体を持った存在であったとしてもそれで構わないような気はするし、街に来たサンタクロースは少なくとも誰かの家には行くのだろう。"Santa Claus is Coming to Town" というフレーズはそんな想像を許してくれる。一応付け加えておくと、こんな話でごちゃごちゃ水を差すより素直にクリスマスを楽しんだほうが余程建設的である。ハッピーニューイヤー。

言語の話は好き

 専攻柄、コーディング(プログラミング言語を使ってプログラムを書く行為)をすることが多く、人並みには得意だ。けれどコーディングが好きかというとそれほど好きではない。考えるべきことが多いし、面倒な作業はもっと多い。それなりに楽しい面はあるものの、用があるのはあくまでプログラムが実現するプロセスないし機能だ。コーディングそのものは少なく済むほど望ましい。

 歩くという行為を考えてみてほしい。それは基本的には目的地へ到着するための一手段にすぎない(散歩については措いておく)。自動車が使えるなら自動車で済ませたいし、目的地がこちらまで来てくれるなら万々歳だ。道中、空の青さを爽やかに感じたり金木犀の香りに心ひかれたりすることがあったとしても、それは歩くことそのものとは関係の薄い事象だ。

 米を研いでみるのも良いかもしれない。どうしても白米が食べたいが、アルファ米を食べる気分ではない。無洗米はちょっと高い。人が米を研ぐのはそういう事情があるからだ。

 文章を書くことについても大体同様の気分がある。一番楽しいのは書きあがった文章を読み返しているときで、書いている最中は誰か代わりに書いてくれないかとよく思う。とはいえ「私が書いた文章」を出力できるのは私だけだから渋々文章を書いている。